新 西郷庵メイン
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特別企画
西郷隆文さんインタビュー

西郷隆盛のひ孫にあたられる隆文さんでいらっしゃいます。曽祖父の隆盛さんについて、どのような思いをお持ちですか?

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「隆盛さんについては、天命に殉じたというか。いろいろな局面にあっても生かされて、普通なら死ぬような目に遭っても、死なずに、まるで生かされていた。最終的に西南戦争で下野したのは少し気が早かったかもしれないけど、ああいうふうに子供たちと一緒に亡くなってしまったというのは残念だね。死んだ事はしょうがないけど、もうちょっと長生きして欲しかったなという気持ちはある」

ご自身において、西郷隆盛のひ孫であることを意識することはありますか?

「私自身は、そこまで隆盛さんのことを意識して生きてきたという事はなかった。それでも、うちの母親が日置島津家の出身で15代繁麿さんの娘だから、母の弟の久欣さんがうちに遊びにこられるときには、背筋が伸びたね。

高校の時からすごく喧嘩をしていた。19歳、大学2年の時に、数人対数人の喧嘩になったことがあったんだけど、相手とやりやって顔が腫れて家に帰ったら、母親から『隆文さんが20歳になったら新聞に名前が載りますからね』と言われて、その時に自分が隆盛さんのひ孫であることも実感したよ。それきり喧嘩もしないようになったな」

まるで西郷さんの面影を映すような雰囲気の隆文さんですね。

「おそらく、薩摩の人って怖いところと優しいところの二面性があると思うね。怒ったら止まらない人、そういう部分が出ない人がいて、隆盛さんも内面にそういう部分があったと思うんだ。そういう意味では、私は隆盛さんの穏やかな部分が似たかもしれない。祖父の菊次郎さんのほうに似たのかも。菊次郎さんは、社会インフラがまだ整っていなかった台湾にいって、教育や土木事業、健全な社会の仕組みを整備した人。その功績は今でも台湾の皆さんに記憶されていて、私が式典などで呼ばれても、菊次郎さんに対する台湾の方の尊敬と感謝の気持ちを強く感じる」

隆文さんが、陶芸家の道に進まれた理由は?

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「私の中学の美術の先生が陶芸家だった。鹿児島市中山に窯があって、中学生の時に釜出しの手伝いなんかをしたことがあった。昭和35年、社会人として東京の婦人服のレース生地の会社で働いていたときに、先生から『作品が日展に選ばれたから見に来ないか』と言われて、東京の上野に見にいった。

そこで見たのが、自分がこれまで見たことがないような色とりどりの焼き物の作品。それまで、私なんかは黒薩摩しか見たことがなかったのに、当時の流行のサイケデリックだったり、カラフルな焼き物なんかが並んでいた。前衛的な作品。それに目を奪われた。

そのとき大賞をとっていた焼き物が、砂の中に埋もれる辞書みたいなぶ厚い本をかたどった作品で、すべて焼き物でできている。本の中に印刷された文字も細かく作られていた。そういった焼き物を見ていたら、感動して自然と涙が溢れた。その時に、焼き物というのは、粘土を焼いて作る器とか、壺ばかりではないんだなというのを知って『こんなのどうやって作るんだろう』という気持ちが芽生えたね。

その時に、いっしょに見ていた先生に「お前も長男なんだから、鹿児島に帰るんだろうが」と言われ、その言葉がきっかけになって、陶芸家としての道を意識するようになった」

1997年より、鹿児島県陶業協同組合の初代理事長を21年間務めてこられました。薩摩焼にどのような思いがおありですか?

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「かつては県レベルでしか認知されていなかった薩摩焼を、国の伝統工芸品として認めてもらったのは我々の成果ではなかったかなと思う。我々が動かなければ、今でもただの薩摩焼だったんじゃないかな。国が認めたということは、国が薩摩焼を、法律にのっとって伝統工芸品として認めたということ。以前は違った。以前は、県の焼き物の組合というものがなかったので、薩摩焼は県レベルの地位しかなく、全国的認知もなかった。それを私達で組合を作って、国への審査を経て、承認を得ることを達成することができた。

もともと薩摩焼は、鹿児島の川辺仏壇、奄美の大島紬と並ぶ工芸品の歴史、価値があった。けれど、薩摩焼きには組合がなかった。窯元同士がまとまらなかったので、伝統工芸品の申請を国に提出するまでにいたらなかった。それが、35、6年前県主催で始まった『薩摩焼フェスタ』がきっかけになって、バラバラだった窯元が1つにまとまる組合ができ、そこから伝統工芸品への申請まで進めることができたんだよ」

隆文さんの作風である『青蛇蝎(あおだかつ)』とは?

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「黒蛇蝎をもともと作っていたんだけれど、青色の釉薬で作れないのかなと思ったのがきっかけ。それまで鹿児島の伝統の色は黒しかないのかなと思っていたんだけど、いろいろ調べると青もあった。私なんかは、その青をロイヤルブルーと言っている。通常の蛇蝎焼きは、陶土に白衣をかけて、桜島の灰、シラスを使うんだけど、そこには鉄分が入っているから、そのまま焼くとグレーになって、表面の色は真っ白にはならない。そこで、脱鉄した土はないのかなと思って探して、それを使ったところ真っ白になった。そこから青蛇蝎ができた。作って40年位になる。今後の展望としては、シラスを使った「シラスバルーン」という作品をやっていきたい。また、これから西郷隆盛公生誕200年、没後150年という節目を迎えるので、その催しも大成功させたいね」

隆文さんの陶芸家としての原動力は?

「やっぱり西郷精神。一つ一つ階段を上るように、上に向かってクリアしていくこと。隆盛さんも、最後の局面は自分の望んでいたものではなかったけれど、人生において目の前の困難をどんどんクリアしていった。一見、無理難題なことも、チャレンジして、それをクリアしていくことが大切だと思う。私も頼まれたら断らない。自分では無理だと思っても常に挑戦するようにしている。祖父の菊次郎さんも『頼まれて一つ一つクリアしていくことで、人間は大きくなっていく』と言われていた。それが西郷精神。終わりは無い」

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西郷隆文(さいごうたかふみ)
1947年(昭和22年)生まれ。維新三傑の一人西郷隆盛のひ孫、また西郷菊次郎の孫にあたる。日置南州窯窯元。鹿児島県陶業協同組合、および鹿児島県薩摩焼協同組合の初代理事長を務める。西郷隆盛公奉賛理事長。2011年「現代の名工」、2012年黄綬褒賞を受賞。陶芸家として「青蛇蝎」や「シラスバルーン」の作品を生み出す。

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